「赤面症と赤面恐怖症」の違い(part2)-002

こころの特性は、

コロコロ変わるから、こころ。コリコリ凝り固まるから、こころ」と言われます。

本来、こころは自由自在、鏡のように何でも写すし、写すものが去るとピカピカの状態のはずす。

ところが、長い間生きていると、自分でも知らない間に、コリコリ凝り固まりできて、それに囚われて不自由になったりします。

それを執着と呼びますね。

メンタルハーモニー研究所のテーマの一つは、執着からの解放です。

それでは前回の続き、「赤面症と赤面恐怖症」の違いについて、第2回目です。

小学生のとき、自分でラブテスターを作ったがために、いじめっ子にからかわれ、自分が赤面症だと気付いた少年(私)は、やがて、赤面することが恐怖となり、赤面恐怖症になってしまいました。

その苦しみから逃れるために、児童会会長選の立会演説会を全児童の前でして、みごと当選を果たし、これで赤面の恐怖から逃れられるかと思いました。

しかし、赤面症そのものは体質ですからコントロールはできません。

気持ちの高揚も一瞬、赤面する恥ずかしさからは逃れられませんでした。

中学校に進んでも緊張する場面になると、例えば、音楽の授業で、一人で演奏しなければならないときや、一人での本読みなどでは、演奏や読むことよりも、いつも赤面しないように言い続けていました。

一つだけ強烈に覚えている出来事があります。それは、中学何年生のときだったか忘れましたが、体育館での朝礼のときでした。

当時、学級委員長だったので、列の先頭に立っていました。

生活指導の先生が、「校内でたばこを吸うやつがおる。吸がらが見つかった」と、えらい剣幕で全体に注意をうながします。

もちろん、私はタバコなんぞ吸いませんでしたから、何ともないはずですよね。

ところが、「もし、ここで赤面したらどうなるだろう」なんて思ったら最後、潜在意識のスイッチは簡単にONになります。

みるみる赤面し、まるで私が犯人ですと言っているような気分になってしまいます。

なにせ、列の一番前ですからね。

「ああ、なんで俺はこんなんやねん。(こんなふうなのだ)」とこころの中は、情けないやら、恥ずかしいやら、腹立たしいやらなんですね。

高校になると、男子校なので、赤面してもそんなことに関心をいだく男子生徒はいませんからずいぶん楽になりました。

ところが、潜在意識に刷り込まれていますから、赤面という言葉が自分の頭に浮かんだら、もうおしまいです。

例えば、高校まで通う電車の中、途中で大量の女子高生が乗り込んできたら?

女の子に囲まれる訳ですから、もうたまりません。

「ここで赤面するなよ」と言い聞かせたとたんに、オートマティックに赤くなります。

「あああ〜、またかよ〜」

残酷なのは友人です。

「お前、何、顔、赤なってんねん。自意識過剰ちゃうか」

そう、おっしゃるとおりなのですが、もはやコントロール不可能、お手上げなんです。

大学に入り、塾の先生のアルバイトをしだします。

教えることが好きだったのですが、赤面症はついて回ります。

でも、相手が子ども達なので、赤面しても、それほど苦痛ではなくなります。

しかし、やはり、赤面する場面は出てきます。

あきらかにミスをしたり、質問に答えれなかったり、何らかの恥ずかしいことをしてしまうと、たちまち赤面します。

活発な子は、当然、「先生、何、顔、赤くなってんのん?」と突っ込みますね。

そしたら、ますます赤鬼のようになってしまうのです。

ここに意識を集中させると、授業をすることが苦痛になります。

週に何度も授業があるんです。どうしようとなりますよね。

もう、バイト止めようかなとなりますが、私は無責任なことが嫌いなたちです。

それと逃げるのも嫌いなんです。いよいよ、追い詰められます。

しかし、これが転機になりました。

要するに、児童会の立会演説会が毎日あるようなものです。

結局、授業への責任感が、覚悟を決めて、赤くなってもやり通すしかない、という気持ちにさせてくれたんです。

生徒から、また、赤くなったと馬鹿にされようが、どうしようが、赤いものは赤い、もうどうしようもない。

赤くなるけれど、この先生が大好きだと言わしてやろうと決めるしかありませんでした。

今まで赤面する恐怖から逃げることだけを考えていましたが、初めて赤面する恐怖を受け入れる覚悟ができたのですね。

実は、このシンプルな、

「赤面するありのままの自分を受け入れる」。

これが答えだったのです。

別の表現をすれば、

「赤面する自分を許してあげる」。

赤面する自分を嫌いで否定してきましたが、「もう、変わらなくても、それでいいよ」と自分で自分を許してあげるのですね。

そうなるとどういう変化が生まれるか?

今度は、赤面症から離れることができて、赤面症を扱えるようになります。

例えば、授業で赤面することを逆手に笑いにしたり、自分の持ち味のようにできるのです。

赤くなったら、「先生はシャイでピュアやからなあ」とかぶせて笑いをとる。

さらに、20代の半ばには、赤面することで、幾つになっても純粋な人だと思ってもらえて、大人の女性からもてまくりました!(笑)

もう、赤面症よ、ありがとうの世界ですよね。

55歳になった今でも、赤面はします。

でも、講演会や式典のあいさつなどは、さすがだなと思ってもらえるように努力しますし、有難いことにそう言ってくださる方もいらっしゃいます。

ラジオ番組も14年も続けてますし、いつでもどこでも赤面しながら、まったく平気に話しています。

なあんだ、それだけのことか?と拍子抜けされた方もいるかもしれませんね。

でも、何かに囚われ執着して苦しんでいる人には、大問題なのです。

おそらく、劣等感やトラウマの出来事など、潜在意識の奥底に閉じ込めている感情は、誰もが多かれ少なかれ持っているものです。

ときには、その感情が突然浮かんできて、苦しめられたり、思わぬ行動に出て後で困ることもあるでしょう。

今回のお話は、その潜在意識に刻み込まれた思いを解放してやるヒントになるかもしれませんね。

最後に簡単におさらいをします。

1.自分の嫌なところを否定して、そこから逃れたいと思っても逃れられません。

思えば思うほど、潜在意識に刻み込まれて、そこから離れられなくなります。

2.離れるためには、自分の嫌なところを、許し受け入れることです。

自分で自分をいじめる必要はありません。

自分を愛してあげてください。

3.ほんとうに受け入れることができれば、その苦しみを時には、楽しみ笑い飛ばすことができるようになります。

これは、あらゆる場面に応用が利きます。

とは言え、囚われもがき苦しんでいる時には、なかなか許し、受け入れ、離れることはできませんよね。

私もそうだったから、よく分かります。

自分を許し、受け入れ、離れるためには、メンタルな訓練も必要です。

メンタルハーモニー研究所では、執着するこころからの解放を目指すセミナーなども開催して参りたいと考えております。

今後もメルマガの情報をお見逃しなく。

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